しもつけ窯の窯は電気です。
上から出し入れするタイプの20キロワットの窯2基。
プロパンガスで還元焼成ができます。
始めて京都でこの窯に接したときは目からうろこでした。温度の上昇下降曲線も理想的、問屋さんからの注文に機敏に答えられる容量(湯呑みだったら約300点)、焼けむらの少なさ、どれをとっても文句ありません。もちろん火色は出ません。それと強還元は無理かな。だから自然釉、焼き締め、青磁などには向いていませんがオールマイティーな窯はありません。自分の作風にはもってこいだと今も思っています。わざわざ京都の窯職人2人に3日間来てもらってオーダーメイドで作りました。個人窯はすべての作業を1人や2人でこなさなければなりませんから、窯焚きをしながら作りや釉の調合などができるこの窯には文句ありません。
でも、作者の自分がいくら文句なくても肝心のお客さまが
「なんだ電気窯で楽をしているのか。」とか、
「備前や伊賀のような本格的な陶芸じゃあないんだ」とか
思われてしまったらそれっきりです。
事実、そういうお客さまも何人もいました。
そういう人には何を言っても無理なので、丁重にお帰りいただいています。
真のお客は、自分の作風・製作姿勢に共鳴してくれる方、自分の作品を日頃身近において使い続けてくれる方です。
作家というのは、誰も見たことのない自分だけの世界を表現する人であるとするならば、その名に値する陶芸作家という者はいったい何人いるだろう。
最初は誰でも見よう見まねで腕を磨いていくのですが、次第に独自の世界という壁を意識するようになるのが普通で、この壁を越えないとオリジナルは生まれません。これが一番苦しい作業だと自分は思います。だから似たような作品が世に溢れるわけです。
桃山の志野を再現する、自然釉がどれだけ掛かっているかにこだわる、思いもかけない焼きむらを期待する・・・、そういったことに命をかける作家さんがいますが、それは技術であって創作とは言えません。
今、伝統として残っているすばらしい作品はそれが作られた頃はすべてその時代のトップアートだったことを忘れてはいけないと思います。オリジナリティーがあるからこそ後世に残ったわけで、後の人間がいくらすばらしいものを作ってもそれはコピーに過ぎないのです。
修行中、勉強中はそれでいいのですが、作家として作品をお金に変えるのなら、最低限作品のどこかに独自色がなくてはいけないと思うのです。
どこにもない表現、軽くて使い易い機能性、丈夫で適正な価格・・・。
生みの苦しみはまだまだ続きます。
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