自分は大学を中退してこの道に入った。年のせいか、ちかごろその頃のこと、いわゆる修行時代のことを良く思い出す。 初めて入った窯場は益子の小笠原窯。共販センターのある城内坂を越えて、浜田さんの所を右に折れて500メートル。道路左側に薪が高く積み上げてある窯場だ。薪が積み上げてあるということは、当然窯は6部屋の登り窯。それ一窯のみ。小口窯三代目の先生の小笠原再二さんと二代目だったその父上、職人さん一人と我々修行中のいわゆる”若い衆”二人、それにパートのおばちゃんふたりの計七人で常時作っていた。窯焚きは二ヶ月に一度、その時は人手が足りなくて臨時に窯焚き職人を二人程頼んでいた。今から35年も前のことだが、それでももう薪窯だけの窯場は少数派になっていてほとんどのところがガスか、灯油窯ばかりだったから今思えばいい経験をさせてもらったと思う。 窯は一部屋が幅4メートル程、中は大人の背丈程だから、もうこれでもかというくらい点数が入る。窯詰めで5日ほど、焙りに2日、6部屋の攻め焚きに丸一日。窯だしまでの冷ましが3日。 起きると翌日までの連休。窯が焚きあがるまで土日も無い。だから二ヶ月ぶりの休日。高校や大学の友人に会うにはこのときしかないので、どんなに疲れていても遊びに出かけた。といっても一月の給料が一万五千円!だったから、東京まで行って帰ってくるだけで二ヶ月掛けてためた小遣いがパー。朝食以外食費はかからなかったので何とかなっていたわけで。それにしても今思うと良く勤まったなあ。(もっとも小口窯には二年しかいなかったけれど・・・。)それでもそれが当時の若い衆の給料の相場で、食事の一切付かない窯場で4万円ほどだったから結局はみな同じような生活水準なわけで、全国から来ている若い連中みんな貧しいなんて感じなかったんじゃあないかな。 次回は蹴ロクロと薪割りについて。 |